互いを認め、絶妙なコンビネーションで地域を盛り上げる福山新田の三人衆
同じ集落に生まれ、それぞれの人生を歩んできた三人が、今、ふるさとに集い、同じ方向を向いて活動をしています。「三人寄れば文殊の知恵」。三人の関係は、まさにこのことわざのとおり。一人では難しい問題を、三人が寄り合い、話し合い、互いを補うことで、地域に活力を与える新しい芽を育んでいます。
野村 寿さん(福山峠のふるさと広場管理人)
橘 福二さん(炭焼き職人)
馬場 正美さん(農業)
INDEX
〈左〉馬場 正美さん(農業) 〈中〉野村 寿さん(福山峠のふるさと広場管理人) 〈右〉橘 福二さん(炭焼き職人)
山道の先に広がっていた命あふれる「天空の楽園」
木々に囲まれた山道をひたすら登っていくと、突然、開けた土地が現れ思わず目を見張りました。きれいに畦(うね)が続く畑。その向こうには水をたたえた池があり、草花の間をチョウやトンボが飛び回っています。峠に開けた箱庭のような土地には、コンパクトなゆえに濃密な命の輝きを感じることができ、「天空の楽園!?」と思うほど美しい風景が広がっていました。
「福山峠のふるさと広場」と名付けられたこの場所は、「福山森林体験の家」を中心にキャンプや炭焼きなど、さまざまな体験ができる施設として整備されており、三人はここを拠点に活動を続けています。野村寿さん、橘福二さん、馬場正美さん。三人とも地元、福山新田の生まれで、野村さんと橘さんはお隣同士。馬場さんも「おーい」と声を掛ければ聞こえる距離に生まれ育ちました。野村さんが昭和32年、橘さんが昭和24年、馬場さんは昭和29年の生まれ。年齢差があり、小さい頃は家や顔は見知っていても、それほど交流があったわけではありません。その三人が年を経て一緒に活動をすることになったのは、自然と温もりにあふれたふるさとがあったからでした。
福山新田の「福山峠のふるさと広場」へ向かう途中の風景。天空へどんどん登って行きます。
三人を集わせた福山新田の自然と集落の絆
同郷の三人は、青年期を迎えてそれぞれの道を歩みはじめます。野村さんと橘さんは学校を卒業後、職を得て関東へ。馬場さんは地元に残り、農業を継ぐことを選びました。ただ、地元を離れた二人にも、心のどこかにふるさとへの断ちがたい思いがあったようです。橘さんは、働き始めてから山歩きが趣味に。家を継ぐ必要もあり、Uターンを決めた時の辞表にも「山歩きがしたいから」と書いたほど。小さい頃に野山をかけまわっていた記憶が、橘さんを山へ向かわせたのかもしれません。
一方、スーパーチェーンに勤めていた野村さんが、転勤の多さに疲れを感じていたとき、思い浮かんだのはふるさとの雪山。子どものころからスキーが趣味だった野村さんが仕事を辞めるときに選んだ道はUターン。「集落の中でも私くらいですよね、冬の来るのが待ち遠しいっていうのは」(笑)。家業の農業を継ぎ「マイペースでやっています」。と、慌ただしかったスーパー時代とは真逆の生活を楽しむ野村さん。
「戻ってみて、時間の流れがぜんぜん違うと思いました。ゆっくりと暮らせる福山新田での生活が、今は好きです」。「最高だね、ここは」と絶賛するのは橘さん。「四季がはっきりしていて、自然を相手に仕事をして、生活していくには最高の場所です」。
「オレは出る機会を逃して」(笑)、地元に残った馬場さんは、Uターンした二人が改めて感じた福山新田の魅力とは別のところに、ここでの暮らしの良さを感じると言います。「若い頃は、集落の人間関係の濃さがいやでいやで。でも年をとった今になると、お互いの顔の見える関係っていうのがありがたいと思うようになりました」。
福山新田の戸数は60戸ほど。山里の雪深い集落ならではの互いを助け合う関係。雪解けの季節を迎えたときの喜び。三人の話を聞いて感じるのは、町の暮らしとは別次元の豊かさ。それはここに暮らす人でしか味わえない「幸せ」なのだと思います。
「福山峠のふるさと広場」野村さんが管理する森林体験の家
1階の吹き抜けサロンは、いくつもの燕の巣があり、ひっきりなしに飛び回っている。
「福山峠のふるさと広場」橘さんが管理する炭焼き窯
福山峠のふるさと広場でつながった三人
Uターンした二人のうち、最初に戻ってきたのが野村さん。30歳を前に帰郷し、魚沼市の食品関係の会社で働いた後、福山峠のふるさと広場の管理人に。キャンプ場があり、池で魚釣りなども楽しめましたが「なかなか利用客が増えなくて」。キャンプに来た人たちにプラスアルファの楽しみを提供できないかと、自分でできる範囲で少しずつ体験メニューを増やしていきました。風鈴作り、木工体験、ウッドバーニング(木に電熱ペンで絵を描く木工細工の一種)、そば打ち体験、わら細工、炭焼きなどなど。どれも地元の素材と人材を生かしたもので、橘さんと関係を持ったのも体験メニューを進めて行く中でのことでした。
橘さんが帰郷したのは、野村さんがUターンして10年ほどたった頃。しばらくは土木の仕事をしていましたが、炭焼きをしていた叔父さんの後を継ぎ、平成15年から炭焼きを本業とするようになりました。「炭焼きの伝統を受け継ぐなんて意識はなくて、一人で完結できる仕事で拘束されることもないし、マイペースでできると思ってはじめたんだ。でも、これがおもしろくてね。今じゃ、炭焼きしながらころっと逝くのが理想だね」(笑)。炭焼きを初めて2年ほど経った頃、野村さんから声がかかりました。福山峠のふるさと広場の敷地内にある炭焼き窯で行っている「炭焼き体験」の指導員が辞めることになり、その役割を橘さんに託したのです。以来、橘さんはよりよい炭を作ることに力を注ぎつつ、炭焼き体験の指導もしてきました。また、2013年からは魚沼市主催の「白炭塾」の塾長として炭作り後継者の育成にも熱心に取り組んでいます。
地元に残り農業を続けてきた馬場さんは、福山峠のふるさと広場に隣接した畑で野菜を栽培。特にアスパラは評判が高く、予約販売だけで全て売り切れてしまうほどの人気です。畑仕事をしながら二人の活動を見ていた馬場さんは、自主的にサポートを申し出ます。そば打ち体験のそばを育てて提供したり、野沢菜を植え、訪れた人が菜の花畑を楽しめるように工夫したり。「馬場さんは全てボランティアでやってくれているんです。ほんとに助かっています」と野村さん。「まあ、一所懸命やってる二人を見てさ、助けてあげようかって。その一心です」。馬場さんの言葉に、思わず爆笑する三人。それぞれの仕事をしながら、管理人である野村さんを支える橘さんと馬場さん。時を経てここに集うことになった三人の心には、自分たちが生まれ育った福山新田の魅力を多くの人に知ってもらい、地域が少しでも元気になればという共通の思いがあります。
福山森林体験の家の裏手にある馬場さんが管理するアスパラ畑
集落の中で芽吹いてきた「やりがい」
福山峠のふるさと広場を中心とした三人の活動から、集落全体に波及する新たな芽が生まれてきました。「こけ玉」作りです。その中心的役割を果たしているのが馬場さん。「魚沼市の活性化プロジェクトの一貫で、魚沼の自然を生かす活動をしようとブナの種を蒔いたんです。それが芽を出し始めたので、今度はこれを生かして何かできないかってことになった時、こけ玉にする手もあるとアドバイスを受けたことが始まりでした」(馬場さん)。
こけ玉は、ボール状にした土に植物を植え込み、水ごけで覆ったもの。鉢がなくても楽しめる室内園芸品として、趣味やインテリアとして人気が高まっています。集落に声をかけ女性たちがこけ玉作りを担当することに。「たぶん私が声を掛けるのと、馬場さんが話をしたのでは違ったと思います」。集落に残った馬場さんだからこそ、話を聞いてくれたのだと野村さんは言います。
こけ玉の話を知った道の駅での販売も始まり、売上が自分たちにも還元される。そんな循環ができる中で、かかわる集落の人たちの意識も変わってきたと言います。「最近は、集落の人たちも、きれいなコケがあったとか、こんな花が咲いていたとか教えてくれるんですよ」と、馬場さんはうれしそうに話してくれました。
「福山峠のふるさと広場 福山森林体験の家」の周りに広がる大自然。池の向こうはキャンプ場になっています。
支援学校とのコラボ実現で新たな展開
ある日の新聞の地方欄にこんな記事が載っていました。「支援学校とのコラボでこけ玉作り」。小出支援学校の生徒が作る木の葉状の皿を、こけ玉の受け皿として使うことになったと報じたものでした。「以前は、家庭でいらなくなった皿を使っていたんですが、ある人から紹介してもらって、支援学校の生徒さんが作る皿を使うことにしたんです」(馬場さん)。「馬場さんの一番の功績は、この皿を入手してこけ玉に使えるようにしてくれたこと。こけ玉作りを指導をするわけではないけど、こんなこけがいいとか、植えるならこんな木がいいとか、こんなところで販売してみたらって。いわばプロデューサーですよ」と野村さんが話すと、馬場さんは「いやー、オレはただの使用人。皿をうけとったり、できたこけ玉を運んだりするだけだから」と照れます。
三人をまとめる「ムードメーカー」の野村さん、「まじめで、頼んだことは必ずやってくれる」と信頼感の厚い馬場さん、そして炭焼きを生業として情熱を注ぐ橘さん。福山峠のふるさと広場でつながりを持った三人が、それぞれの関わり方で山里の小さな集落に投げかけた波紋は、ゆるやかに、でも確実に広がっています。
福山峠のふるさと広場 福山森林体験の家
福山森林体験の家の裏手にある橘さんの炭焼き窯
福山森林体験の家の裏手に広がる畑